百花園を創り支えた人々


佐原 鞠塢(園祖)

1762?~1831

 天明年間に仙台より江戸に出、中村座芝居茶屋和泉屋勘十郎に奉公する。その後日本橋住吉町に骨董店を開き北野屋平兵衛と称する。この間に、当時の文人、加藤千蔭、村田春海、亀田鵬斎、大田南畝、大窪詩佛、酒井抱一、川上不白などとの交流を深めた。

 ある時、道具市を開いたところ賭け事の疑いがかかり骨董店を閉め、本所中の郷に隠居し、菊屋宇兵衛、略して菊宇と称した。それを鵬斎の助言により鞠塢と改めた。

 その後、寺島村に多賀屋敷と呼ばれていた土地を得て百花園を開いた。

辞世

 隅田川 梅のもとにてわれ死なば

        春吹く風のこやしともなれ



酒井 抱一

1761~1828

 姫路城主酒井忠仰の第二子として神田小川町酒井雅楽頭邸に生まれる。

 徳川末期の画家にして俳人。字は暉真、俳譜に屠龍と号す。また狂歌と浮世絵に、尻焼猿人(しりやけのさるんど)と称す。(平凡社 『日本人名大事典』)また長命寺(向島五丁目)境内の「退鋒郎毛君痙髪塚」の「筆祖佩阿君像」は抱一の画による。

 当初梅林であった当園を「梅は百花のさきがけ」という意味で、「百花園」と名づけたのは、抱一だといわれている。御成座敷設計。鞠塢を光琳の墓制作のため京都に派遣。千樹菴益賀「鳥の名の」の句碑に書を残す。



亀田 鵬斎

かめだ ぼうさい

1752~1826

 父は萬右衛門は、上野邑樂郡佐貫庄五箇村の生まれ、江戸馬喰町の鼈甲商長門屋の通い番頭をつとめた。井上金峨に学び、二十余才にして塾を開いた。赤坂日枝神社の側、駿河台、本所出村、根岸などに住まいを移し、下谷金杉で没した。遺骸は浅草今戸正福寺に葬る。もっともその造詣を見るものに善身堂一家言中の「性説仁説」がある。しかし、朱子学を中心としなかったので、松平定信の異学の禁に際して、五鬼の一人とされ、下町儒者の大物とされていた。詩文が上手で、書や工芸もした。酒を好んで「金杉の酔先生」とも呼ばれた。

 著書に「大学私衡」「東西周考」「伊呂波釈文」「鵬斎文抄」「善身堂詩抄」「論語撮解」「律数解酔銘帖」胸中山」「候鯖一欝」などがある。

創設者の一員。文化11年「墨陀梅荘記」(石碑)を選し書く。


小倉 常吉

おぐら つねきち

埼玉県深谷出身

1865~1834 

 明治・昭和時代の実業家。慶応元年9月、柴崎宗十郎の三男として埼玉に生まれ、先代常吉の養子となる。12歳の頃上京し、日本橋の油店に雇われる。秘かに石油について研究し、明治22年独立して石油業を開き、32年に製油事業をはじめる。大正14年に株式会社小倉石油となり、大島精油所、鶴見貯油所、新潟や秋田に油田を持ちタンカーも数隻持つなど日本屈指の石油会社を起こした。

 明治43年の大洪水以降、深刻な経営難に陥った百花園に対し、大正4年、その土地を引き継ぎ、再建と経営を支援した。没後、遺志により昭和13年9月、百花園は東京市に寄付された。